しのみやチキンの昔のはなし No2

このコーナーは当店の誕生からこれまでの変遷を書き綴ったものです。興味と時間のある方は読んでみてください。


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2,ブロイラー養鶏
 そんな時、米軍・横田基地と都心を行き来する進駐軍のある将校に出会って「採肉養鶏」という新しい世界を知り未知の生産物への挑戦を始めたそうです。通訳を介していろいろ聞き出した米国での食品情報を元に若どりを食用にするという新しい試みを自分なりの工夫を重ねて達成し、その将校に試作品を評価して貰ったそうです。
その後、生来の勤勉さと身を惜しまない努力の甲斐あって昭和30年代はじめの黎明期のブロイラー養鶏家としては日本有数の養鶏家と認められるまでに成功を収めました。
採卵養鶏から派生した採肉養鶏がブロイラー養鶏として一般に認知され一つの産業となっていった昭和30年代末期から40年初めには関東で1,2の規模を誇っていた父でしたが、ブロイラー養鶏業界も次第に大資本の進出による企業業種へと変わっていき経営のポイントも生産物の販路確保に変質していきます。
 私が父の後を継ぐつもりで東京農大に入ったのが昭和35年でしたが、在学した4年間の間に業界は大きく変化し、卒業した39年にはすでに時代は個人経営のブロイラー養鶏場から大企業や商社資本の参画する大規模農場経営に変わりつつあったのでした。
私が卒業間近になった頃にはそういった傾向はほとんど決定的で、父は私に流通革新で自身の経営を打開していきたいという思いを披瀝し、自家販売を目指すことにしました。
昭和40年代初めにあちこちの街でいわゆる「流通革命」が話題になり、一般生活用品や大量消費製品を目玉販売として躍進したスーパーマーケットが成長しはじめた頃でした。
特に農産物製品の安値大量販売は生産から販売までの流通を大きく替えたシステムが取り入れられ日本人の生活様式が激しく変化しはじめたのでした。
畜産物製品の流通もご同様でその流通形態はいろんな問題があり、とり肉はもとより牛豚などの畜肉製品の一般消費が拡大しない大きなネックとして指摘され始めていた頃です。当時、街の肉屋さんや鶏肉屋さんで売られていた肉の流通経路は  養鶏農家→庭先仲買人→問屋→小売店→一般消費者  というのが普通であり、場合によっては更に中間に大卸問屋や小卸などの数人が入ることもあり、従って当時の鶏肉は料理店や飲食系の業務需要が殆どの高価格食品でした。販売されている肉も卵を産み疲れた高齢の雌鶏の肉がほとんどで皮も骨もひどく硬いので、肉屋さんではすべて解体され骨を抜き皮を取って売られてました。当然価格も高く販売量もごく僅かで大方は精肉店の片隅で販売されていました。
そんな事業環境の中で父の出した結論は「生産直売」でした。篠宮養鶏園で生産したブロイラー生産品を私が小売店を担当して新鮮な若どり肉を安価に一般家庭に提供する、というものでした。
 東京オリンピックの年に東京農大を卒業した私は3年半の間横浜市の「梅や鶏店」という国内屈指の鶏肉専門小売店に見習いのために勤務し鶏肉店経営のイロハを習得させてもらいました。古い時代の職人や新しい時代の主婦パートさんを大勢抱えた活気のある超繁盛店で業務の拡張が追いつかないほどの賑わいでした。そこでのわずかな期間に盛りだくさんの知識と経験が得られた幸運を今でも感謝しております。
昭和42年に戻った私は父と相談をしながらブロイラー専門小売店を田無の駅前に開店することで準備を重ね10月24日に「養鶏場からご家庭へ!」というセールスコピーで生産直売の店「しのみやチキン」を田無の北口駅前通りにオープンしました。
お陰様で多くのお客様に支持、支援されご利用をいただきしのみやチキンと共に篠宮養鶏園の経営も安定軌道に乗っていきます。

3,ローストチキンに続く